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宮崎県の戦争遺跡7〜陸軍都城飛行場_東飛行場編2

陸軍都城飛行場_東飛行場の石碑や標柱は全部で三か所に存在しております。

今回は残り二つについてご紹介致します。

かつての東飛行場の南端側に現在、前目公園という結構広い公園がありまして、その敷地内に石碑があり、東飛行場についての記述があります。

前目公園

かつて このあたりは一面の荒れ地であった。

そこに祖先が鍬を入れ、肥沃の大地にした。

戦時中、ここは、東洋一を誇る「東飛行場」となり、戦運急を告げるや、大特攻基地として多くの若者が沖縄の空に散った。

戦後、配分された荒れ地に再び開拓の鍬が振るわれ、現在に至った。

この公園は、移り変わりを重ねた開拓の歴史を伝えるために先輩たちが残したものである。

二〇〇一年三月吉日 前目自治公民館 前目開拓小組合

当時の名残りを残す物は一切無く、石碑だけがかつてのその存在を語っています。

ここの地区の古くからの住民に言わせると、掩体壕がそこいら辺にあったよ〜と言う事でした・・・残ってない(涙)

しょうがなく、もしかしたら目の前のこの広場も滑走路の名残だろうか?と勝手に想像してみたりしながら、しばし僕は佇んでおりました。

訪問時期

2015年8月

最後の三つ目。

場所は都北町旭公民館横の都北町緑地広場という公園内にあり、恐らく当時の滑走路の中に位置していると思われます。

「特攻隊出撃の地」記念碑と呼ばれ、案内板と石柱のような碑が建っております。

案内板の内容は以下の通りです。

鎮魂(都城東飛行場)

太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日までの間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立った。

都城東飛行場は、昭和十九年前半、海軍が地元住民の協力を得て沖水川流域の田んぼを飛行場に急造したもので、表面がでこぼこの誘導路は、たこの足のように伸びた形をしており南北に約一五○○メートル、東西に五○○メートルの大きさで、まさに自然の草原さながらであった。

当初は海軍が零式戦闘機で訓練していたが、翌二十年三月、来る沖縄戦に備え第百飛行団配下の四式戦(疾風)装備の飛行第百一戦隊が展開、その後は陸軍専用の基地となった。

同年三月十八日には西飛行場が空襲を受けたが、東飛行場の特攻機は、たこの足のような誘導路を伝って森林や山裾の影の掩体に潜み空襲を逃れた。

また、部隊の宿舎も東南側の五○メートルほどの丘陵地帯に半地下壕式であったため、最後までこの飛行場から特攻機が飛び立った。

同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて、四月十二日に第一特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立った。

同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建物が直撃を受け死者十八名を出した。

また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東飛行場に転進し飛び立って行った。

以後(昭和二十年)

五月  四日 第六次総攻撃にあわせて、第六十振武隊(六名)

五月 十一日 第七次総攻撃にあわせて、第六十振武隊(三名)

五月二十五日 第八次総攻撃にあわせて、第五十七振武隊(十一名)

                   第五十八振武隊(十名)

                   第六十振武隊(一名)

五月二十八日 第九次総攻撃にあわせて、第五十八振武隊(一名)

                   第五十九振武隊(三名)

六月  八日 第十次総攻撃にあわせて、第五十九振武隊(六名)

六月二十一日   航空攻撃にあわせて、第二十六振武隊(四名)

六月二十二日日            第百七十九振武隊(五名)

七月一日 第百八十振武隊(二名)

次々に飛び立ち、幾多の若者の命が散っていった。

同年八月十五日、終戦を迎えた。

諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和を末代へと伝える事、恒久的平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたします。

  平成十三年六月吉日

  都城特別攻撃隊戦没者奉賛会

  会長 岩橋辰也

詳細の問い合わせ先:都城市特別攻撃隊戦没者奉賛会(都城市障害福祉課内)

痕跡の所在地:都城市都北町7502−1 都北町緑地広場公園内

所有者名:都城市

この公園内で「特攻隊出撃の地」記念碑を眺めながら特攻隊への思いを馳せていた所、地元民らしいオジサンがやってきて「特攻隊のご遺族ですか?」と聞いてきたので、もうちょと見ていたかったけど居づらくなり、そそくさと退散致しました・・・。

残念・・・。

訪問時期

2012年4月

余談ですが、都城飛行場をネットで調べていた所、都城市掲載ネタでこんな記載を見つけました。

【「終戦後に、都城市において軍医が液体入りの不審瓶を埋設している光景を目撃したとの証言情報がある」と

○廃棄・遺棄情報

・住民から得られた証言情報として、昭和20年の終戦後、旧軍の軍医が同住民の自宅の裏山付近において、7分程度まで液体が入った直径70〜80cm程のガラス瓶を、下に石灰を敷き、約1.5〜2m程の深さに埋設しているのを目撃した。何を埋めているのか質問するとその軍医は、毒ガスを埋めていると答えた。

・同住民は、自宅付近に旧軍の診療所や食料倉庫、都城飛行場があった。診療所の裏山に木が茂っており、その辺りに埋設したと思われると証言した。

住民から得られた証言情報として、埋設された数年後に、埋設地点付近の木を切り、住宅が建てられたが、その際幹を伐採したしたのか、根まで掘り返したのかは不明である。

その時は、異臭騒ぎ等は起こらなかった。

現在は、住宅は移設され、不審瓶が埋設されたと思われる場所付近には塀が存在している。】

市で調査されていたようですが・・・さぁ〜て、どこなんでしょうかね〜?

(東飛行場っぽい気がしますが・・・)

次回は都城北飛行場についてご紹介致します。